200年前のワイキキ:

  

今からほんの200年前ワイキキは豊富な清水が湧き出て、タロイモ畑に多くのタロイモが実る豊かな土地だった。砂浜には大振りの実をぶら下げるココナッツが林立し、その奥には養魚池が造られていた。漁師は網であふれるばかりの魚を捕っていた。

  

  

  

 ディズニー・ホテルの壁絵

ハワイは気候にも恵まれていた。ハワイではつねに北東からの貿易風が吹く。
オアフ島では貿易風はコウラウ山脈に当たって上昇し、積乱雲が生じる。そしてワイキキの北にあるマノア谷(ハワイ大学のある谷)に雨をふらす。この雨が小川や地下水となりワイキキに注ぐ。
アノマ谷で冷やされた空気は涼しい風となりワイキキを吹き抜けていく。

過ごしやすい気候にオアフ島の王族たちは代々ここに居を構えた。首長や上流階級の人びとが好んで邸宅を建てたのがカリア地区、現在のヒルトン・ホテルのヒルトン・ハワイアン・ビレッジ カリア・タワーのあたりであった。

15世紀ころ,日本の室町時代ころにハワイにはまだ文字がなく、言い伝えによるとオアフ島の王マイリクカヒがワイキキに居をかまえていた。彼はオアフ島をモク(地域)にわけアフプアア(地区)に分割して統治するという組織的な行政を行っていた。
ワイキキがオアフ島統治の中心だったといわれている。

1795年カメハメハ大王がハワイ王国を建国。

    

カメハメハ1世は1750年ころハワイ島北部のコハラで生まれれた。
当時は島ごと、地域ごとに大酋長たちが血で血を洗う戦いが繰り広げられていた。


Hawaiian Monarchs and Their Palaces  (Richard A. Wisniewski著)


カメハメハが20才台後半のとき、キャプテン・クックがハワイを訪れた。それまでのハワイは石器時代に近い金属道具もない社会であったが、西欧人来訪で産業革命後の社会へと大変革をせまられた。若いカメハメハは西欧文明を吸収し帆船や大砲を購入し、白人を参謀格にしてハワイ統一に乗り出した。
ハワイ島を振り出しに、マウイ、ラナイ、モロカイを制圧、1795年にオアフ島も支配下において、ハワイ王朝が誕生した。カウアイ王が帰順を願い出て、1810年ハワイ全島の統一が実現し当時捕鯨船基地としてにぎわっていたマウイ島ラハイナを首都とした。

1819年カメハメハ大王死去でカリスマを失い、その後カメハメハ1世の王妃でカメハメハ3世の摂政(1832年まで実権をにぎっていた。)のカアフマヌ王妃がハワイ人の古来からの生活基盤のおきてを積極的に否定し、王妃みずからキリスト教を信仰するようになり1840年キリスト教がハワイ国教となった。

1840年カメハメハ3世のもと、ハワイ憲法発布、立憲君主国となる。
日本の明治憲法発布は1889年(明治22年)であるが日本の近代化は日本人によりおこなわれたが、ハワイの近代化はハワイ国政に浸透した白人勢力により西欧のシステムが急速に移植されたとみるべきだろう。

19世紀半ばの太平洋地域は、欧米の覇権主義・植民地拡張主義が跳梁した時期で、ハワイでもカトリックやプロテスタントの宣教師の布教かかわりでフランスやイギリスの侵攻をうけていた。

1843年イギリスのハワイ国旗を引き摺り下ろしユニオンジャックを掲げるという暴挙にあったが、政府入りした宣教師のW.リチャーズがハワイ国王の使者として欧米に赴きイギリス、フランスそしてアメリカからハワイが独立国であることを承認しその独立を尊重するという宣言を1844年にとりつけた。そして、再びハワイ国旗が掲げられた。


このときカメハメハ3世がおこなったスピーチの一節がハワイ王国とその後はハワイ州のモットーとされ、王国の紋章ならびにハワイ州の紋章に残されている。

 

"Ua Mau Ke O Ka Aina I Ka Pono"
The life of the land is preserved in righteousness.
大地の生命は正義によって保持される。

19世紀にはホノルル港はハワイの正面玄関として栄え、政務の実質的な中心はホノルルであったが当時の首都は捕鯨船基地としてにぎわったマウイ島ラハイナだった。

1845年、カメハメハ3世はラハイナからホノルルに首都を移した。

カメハメハ3世が首都をオアフ島に移してからハワイ語で”天国の鳥”の意味であるイオラニ・パレスを代々の王は執務と居住の場とした。

   


   

宮殿は1844年オアフ島の大酋長マタイオ・ケクアナオアにより建てられた。マタイオの妃はカメハメハ大王の娘キナウで、子供たちにはカメハメハ4世、5世などがいる。

1846年カメハメハ3世により公布された土地改革条例は、国土の1/3を王と王族に、1/3を国家に、1/3を一般市民に分け与えるという内容だった。
それまで土地の私有という観念のなかった原住ハワイ人の手から、白人事業家に土地が渡るのに時間はかからなかった。これにより白人の土地所有が急速に拡大されていくことになった。ワイキキも、地元のビショップ財団の所有地以外はほとんど白人のものとなっていった。

1854年カメハメハ4世即位。1863年カメハメハ5世即位。

1868年日本からの初めての移民。

1872年カメハメハの血統が途絶え、選挙でウィリアム・ルナリロ王即位。

1874年カラカウラ王即位。
その後のカラカウア王の治世に、閣僚のほとんどは白人となり王はただの象徴となる。

1875年アメリカ・ハワイ互恵条約締結。

1887年カラカウア王は政府を牛耳る白人勢力に操られ銃剣で取り囲まれたなかハワイ人の権利を大幅に制限する新憲法(銃剣憲法)に署名することになる。

1891年カラカウア王の死で女王になったカラカウア王の妹 リディア・リリウオカラニは彼女の最良の指導者・補佐役の夫ジョン・ドミニスを即位後7ヶ月で亡くしハワイ王朝崩壊は早まった。

1893年1月 女王はイオラニ・パレスへ幽閉され、ハワイ王朝は崩壊した。
リリウオカラニ女王は音楽の才に優れ”アロハ・オエ”などの美しい歌曲を残している。

リリウオカラニ女王の姪のカイウラニ王女はイギリス留学中に叔母リリウオカラニ女王の幽閉とハワイ王国の消滅を聞 き1897年帰国する。彼女はしばしば”悲劇の王女”と呼ばれる。聡明で美貌に恵まれながら、23歳という若さで未婚のままこの世を去った。

1875年に生まれ、父はスコットランド人のアーチボルト・クレッグホン、母はカラカウア王の妹 リケリケ。
カイウラニはハワイ人と白人の両方の文化を身につけて育った。彼女はハワイ人の文化と白人の文化の両方を理解し分別なく接したが、ハワイ人と白人は歩み寄ることなく彼女の祖国は消滅してしまった。
1899年彼女は失意の中、リウマチ熱のため帰らぬ人となった。
王女の名を冠したシェラトン・プリンセス・カイウラニ ホテルに肖像画が飾られている。

1898年アメリカへのハワイ合併法案が成立。8月12日イオラニ・パレスのハワイ国旗が降ろされ 星条旗が掲げられた。

 
つぎに。


参考文献:

ワイキキ&オアフ島 地球の歩き方 RESORT
   GLOBE-TROTTER TRAVEL GUIDEBOOK
    ダイヤモンド・ビッグ社